美貴子のバレンタイン
陽太の前に置かれた物がなんだったのか、机の上にドンと置かれてしばらくは理解することができなかった。
大学の授業をさぼり、バイトへ行き、帰ってきてからニュースだとかドラマだとかをつらつら眺めながら朝刊を読む。
そんな日課を過ごしている陽太にとって、それはちょっとした事件だったのだが。
それを置いたのが妹の美貴子だった、というのは事件ではない。
それがもしも湯気をたてるコーヒーなら、"まま”あることなのだから。
しかしそれが何かと判らないのだから事件だ。
「ふむ」
ぼんくらそうに見えて陽太はこれでも学年で五本の指に入る学力の持ち主だったが、少々心当たりがつかない。
他の学生が全然勉強もしない底の底に近い大学での実力なのだからかもしれない。
美貴子は陽太の夕食の後片付けをしていたのでエプロン姿。お気に入りにフィリックスのプリントが入った黒と白のエプロンの前で手を合わせて、陽太の一挙一動を見守っている。
くん。
鼻を動かす。
甘い香り。
くんくん。
嗅ぎ覚えのある香り。
これは…なんだったか…。
陽太はどちらかというと辛党で、どちらかというと甘い物は苦手な性質で、ムースとパンナコッタの区別がつかない人間である。
それが何か思い出すのに時間がかかったが。
思い出す。
おお。
しかしこれはいびつすぎる。
栗のイガがましになったというか、大きめのコンペイトウというか、子供の粘土細工というか、なんというか。
言葉を選ぶ。
「…」
選んでいる時にふと思い出した。
今日はぁ…カレンダーを見る。
…
2/13
…
と、いうことはこれは…
大事件だ。
「美貴子っ!?」
ここでようやく陽太は裏声を張り上げた。彼は怒った時と感動した時と驚いた時改め感情が昂った時に声が裏返ってしまう癖がある。
っこ!?とどうしても聞こえてしまうが、ここは彼の個性を尊重し美貴子と言っていると思っていただきたい。
とりあえず陽太の目の前に置かれた物を紹介せねば話は進むまい。
陽太の前に置かれたのはチョコレートだった。
先ほども述べたがなんともいびつな、料理上手な美貴子にしては珍しく不細工な作りのチョコレートの塊が大小バラバラに5つほど。
そして明日は2/14日。
不細工であれど、手作りなチョコレート。
これはアレしかない。
もう高校生だ。
美貴子も大人になったのだ。
昔あったが、もう一度赤飯でも炊かないといけないかもしれない。
陽太は平静を頑張って頑張って気合で頑張って装い、たずねた。
「これは?」
美貴子は答えた。
「チョコ」
少しも照れもなく
「何処行くのあなた?」
「うんこしにいくんだお前」
そんななにげない夫婦の会話のようなノリである。
「味、見てよ」
ちなみに断っておくが落し物の味見ではない。
兄の目から見ても可愛い可愛い、目に入れても可愛い喰っても多分可愛くてそれが外に出てもきっとまた食べても良いくらい可愛い可愛い可愛い妹である。
それが、ようやく、彼女が、ついに、妹が、やっと
「おうおう、わかった…食べるよ」
嬉しいのにちょっと寂しいのは何故だろう。
ほんのり苦いチョコの味。
甘党じゃない陽太にぴったりの渋い味。
いびつなチョコをガリガリと齧り、大きさの違うチョコを時には頬張り時には舌で転がしながら陽太はこの幸せを、本当の幸せをかじってなめて栄養にしてトイレに落とす幸せ者の顔を思い浮かべ涙した。
顔で笑って心で涙した。
「美味いよ…美貴子」
きっと喜んでくれるよ、なんて言えなかった。
「そ?」
嬉しそうににこやかに、妹が笑う。
優しい笑みの裏側にどんな想いがこめられているのか、陽太は考えてはいけないと思った。でもほんのちょっとだけ、あぁちょっとだけ考えてみてもいいじゃないか。
明日、お前はどんな面をしてコレをアレするのだろうか。
コレをアレする時にナニがナニしてアレするのかもしれない。
あまつさえナニがアレとナニがナニでアレでナニで…
「美味い、美味いよ美貴子」
陽太君、今夜は眠れそうもない。
「ミキ」
そうだな、彼女を形容するなら猫というかキツネというか犬科だか猫科だかどちらかこんがらがってしまいそうだが、とりあえず可愛い気方面に釣りあがった目をして、髪を二本にまとめて頭頂から左右におろした髪型をした少女が美貴子に声をかけた。
放課後の学校。
美貴子は美術部で、ここは美術部の部室である。
「んー?どうしたの響」
「まだ渡さなくて良いの?」
「えー?」
美貴子はキャンパスにコンテを走らせながら、モデルの花瓶から目を離さない。
「何を?」
区切りが良いところで美貴子がようやく響を見つめた。響も待ちくたびれた様子もなくまるで一呼吸おいただけのように会話を再開した。
「今日ずっとここで絵描いてるけどさ、まだチョコ渡さなくて良いの?」
「誰に?」
とぼけたような顔。質問をはぐらかすような意地の悪い音のない返答に響は少々面食らった。
「だって、もう放課後だよ?今日部活本当は無いから皆帰っちゃったし、クラスはクラスでずっと私とお喋りしてたし」
「うん」
「だから、あんた本命はいつ渡すのさ。昨日本命は手作りするって材料一緒に買ったのに」
「あぁ…」
まるで遠い所から自分を見ているような、親友の物思いに耽る目を見て脱力する響。
「なーに、それ。まさか私に付き合っただけってこと?」
ちなみに響はバイト先の先輩に渡すということを昨日美貴子は聞いている。
「ううん、そうじゃないよ。」
「じゃぁ何よ、まさかもう渡したとか?」
ややあって、美貴子はキャンパスにコンテを戻した。
そして静かに頷く。
「…うん」
「まじでーーー?あんたいつ渡したのよ、抜け目ないわね。で、で、どうだったどうだった?」
「どうって?」
「だから、チョコあげたらその人なんて言ってたの?あんた告ったんでしょ?」
「まさか」
コンテが折れて音を立てて床に落ちた。
「あらぁミキってば…あはは。ねぇ、渡したら相手さんなんて言ったの?」
「…美味しいよって、泣きながら」
「泣きながら」
「泣きながら、また美味しいよって。」
「泣いたの」
「うん」
「舌でも噛んだのかな」
「そうかも」
響という少女の観点から見たら、なんとも情けない男のように思えた。チョコを貰っただけで涙する男が果たして良い男なのだろうか。
だがこの親友の笑みから、よほどその男に惚れこんでいるというか、憧れているというか、信頼しているというか、なんというか。
まだ少し自分には判らないというか。
でも何か相手を知り尽くしたような悟ったような匂いのする笑みだった。
お父さんを見るお母さんのような感じ、響は夕食の席の家族の顔を後に思い出す。
子供にはまだ早い。
親友の背中がそう言っているようで、響は思わず目隠しをしてやった。
「だーれだ」
響には美貴子が羨ましくてたまらなかった。
ばれんたいん小説ぅ〜
なんかサイト開く日は酒飲んでる気がします。
うぃー
S・ハンセンじゃありません。